2011年10月8日土曜日

中手聖一「子ども福島」代表との対談 ( 要旨 )

子どもたちの集団疎開をめぐる福島の経過と現状

福島原発震災直後、子どもたちの疎開について、当初、一校まるごと引き受けますとの声が広島
県の3校からあがった。しかし、残念ながら福島から手が挙がらなかった。また、福島県も福島県外へ出す必要ない、との立場だった。つまり、出す気がないということだ。
3月15日ころの35mSvなどというひどい放射能がばらまかれた頃、どんなものかわかっている人々は自主避難を行った。一方、山下俊一などの勢力はご存知のように「100msvでも大丈夫」などとキャンペーンを張った。そして、一般市民は、「それを信じたい」という気持ちでここを動かなかった。私が山下講演会へ参加して100mSvの問題を発言しても「話すな、話すな」と言う声が上がり、ついには、「帰れ、帰れ」との声が会場からあがるほどだった。しかし、5月以降、山下俊一のボロは明
らかになっていき、市民の不信・不安は高まっていった。そして、山下自身も100mSVから20mSVへ「大丈夫」という基準を下げざるを得ない状況にもなった。しかし、この7月、選挙があったが、候補者の中に除染や脱原発を言う候補はいたが、避難については誰も言わない状況であった。議員も経営者も、住民流出の目先の問題しか考えていない。避難については誰一人としてとりあげなかった。

チェルノブイリで学んだこと– 5年間放置したソ連の過ちを繰り返すな !

ソ連は、チェルノブイリ事故で5mSV以上を強制移住、2mSV以上を任意(選択的)移住とした。日本には、強制移住のみで選択的移住権はない。しかも20mSV以上からだ。だからソ連を評価する人もいる。しかし、残念ながら、ソ連のこの避難政策は5年経ってからだ。それまでは、5年間放置したままだった。
事故が2年たった頃、誰にもわかる異常が出始めた。当時グリーンピースのウクライナの責任者で現在イギリスの研究所長と話したが、子どもたちは風邪を引いたらなおりにくく、重篤になりやすく、また、肺炎になりやすいという症状になり、大騒ぎになったそうだ。ベラルーシの団体から聞いた話だが、150km〜300km離れた地でも子どもたちに異常が出始め、役人が来て「ここも汚染地区」、別の地域でも「ここも汚染地区」と測っていった。そして3年後になってやっと汚染マップができた。結局、子どもをガイガーカウンター代わりにしたということだ。
そして、健康な人は5人に1人位になってしまった。
5人で10個の病気をもつようになったともいわれた。
そして、5年たって漸くこの避難政策をとった。
チェルノブイリ事故では、私たちは、5年放置したということがこの事態となった最大の要因だという
ことを学び、このチェルノブイリ事故の過ちを福島で繰り返さないでほしいと言われた。

移住と疎開 – 「サテライト疎開」の決断を !

いまのところ、移住について、市民からも了解は得られていない。しかし、数年先にいやがおうでも必ず、避難の声があがる。ソ連の子どもより日本の子どもが放射能に強いわけではない。
目先のことしか見えない日本政府、自治体の長や議員さんや市民も含めて、一日も早く決断できるように今から準備をしなければならない。ソ連は、あの広大な土地の真ん中で事故が起き、移住地も新しい土地が用意された。しかし、日本では汚染された土地でも捨てるわけにはいかない。大規模な除染をして1m2でも住める土地を広げていくことが必要だ。そして除染された土地に戻るという避難政策が必要だと考える。いま、賛同(市民グループは別にして)は得られないけれど、こういう避難政策が必要な時が来ると将来を見すえて提唱している。移住でなく、いずれは戻ることを前提にした疎開が必要だ。

私は、選択的避難地区を設定して、
1,自己選択–情報開示 
2,同程度生活の保障–平等待遇 
3,アイデンティティの保護 –避難者コミュニティ
を3原則としており、これを「サテライト疎開」と言っている。

広島では、被曝者を中心として「サテライト疎開を実現する会」が結成された。そして、新潟には、唯
一の集団疎開といっていい「朝鮮学校」の例がある。いろいろ問題あっても福島県人としてアイデン
ティティをもった集団疎開はできるし、力あわせれば可能だと言えるのでないか。
(2011.9.2 福島市「子ども福島」情報センターにて)

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