2011年10月30日日曜日

東京での「3・11 メルトダウン」写真展と トーク

写真展とトーク            

高橋和彦 

10月27日、東京で行われた「3・11 メルトダウン」写真展とトークに行ってきました。
トークの1人、豊田直巳は映像ジャーナリストで、イラクでの劣化ウラン弾、アチェなどビデオやスチール写真で取材。展示写真は彼ほか数名の作品でした。
彼らは福島に地震発生直後から入り、持参した測定器で現地のとんでもない有様を取材、いまも現地に入っています。6月、テレ朝の報道ステーションで酪農家の自殺が報じられましたが、この取材と映像は彼によるものでした。(トークの中でも流され胸を打つものでした。)
写真展はそれほど点数が多いわけではないのですが、息をしているのが苦しくなるような映像でした。会場のアンケートに私は書きました。
「映画『渚にて』、あるいはチェルノブイリのドキュメント映像、写真などを想起します。
それともデジャブーでしょうか。」
誰もいない町に、「原子力明るい未来のエネルギー」のアーチの下で、取り残された犬たちがうろつく、そんな写真に何年?か後の新潟駅前の光景を見ていました。
ほか、何頭もの乳牛が息も絶え絶え、または餓死している光景、逃げ出してそこらじゅうの作物や家の中にまで入り込んで荒らす豚たち、降り注ぐ放射能の下暮らす人々、それでも明るく振舞う子どもたち、測定器を体に当てられる子どもたち、高濃度汚染地域でがれきの中に放置されたままの遺体、等々、トークの中でも映像は流され、この肌に福島の状況が浸み込んで行くようでした。
トークは、豊田直巳氏、やはり映像ジャーナリストの野田雅也氏とピースボートの人でした。
豊田、野田両名は取材の様子やいま福島の人々、特に子どもたちが置かれている尋常で無い状況
などをチェルノブイリとも重ね合わせながら、ピースボートの人は福島の子どもたちが数週間船ですごした様子や現地でのボランティア活動、来年1月に横浜で開催される『脱原発世界会議』のことなどを話しました。
展示写真は岩波ブックレット『福島原発震災のまち』と、凱風社『3・11 メルトダウン』に載っています。
もし入手困難でしたら2冊とも手元にありますのでお貸しします。ご連絡ください。
トークの最後、ある歌手の歌を背景に福島の自然と子どもたちや農家の美しくも酷い映像がスライ
ドショーで映し出されました。
ウクライナ出身、日本在住のナターシャ・グジー、youtubeで検索すると、2008年NHKで放映された映像が出て来ます。ぜひ彼女の歌とメッセージを聞いてください。

2011年10月22日土曜日

10/15郡山デモ

10月15日の「子どもたちを避難させて!郡山DEMO」 に、参加してきました。
途中、バスのなかで放射能を測定、途中0.8~9μSV(出発時の黒埼では0.05μSVだから16倍)
の値が表示され、びっくり。バスの中でも変わらないことを実感。
郡山駅前は、福島県外へ避難されている方々を含め、200名程度の集会を開催していました。
「子ども福島」の中手代表が自ら住む渡利地区の放射能汚染のひどさを訴え、俳優山本太郎さんは、「郡山疎開裁判を勝利させて、子どもをすぐ疎開させるべき」と発言しました。
この駅前での線量は、0.6μSV前後。終了後、2.5kmの郡山市役所へ向けデモ行進。
一本道の緩やかな坂道がまっすぐ続くルートでした。ソプラノサクソホンと太鼓の軽妙な心地よいシンプルな音楽にノって行進、商店の人々は、笑顔と拍手で送ってくれる人々が多く見受けられます。途中行進に加わる人も結構います。
参加人数は、集会よりもずっと多いように思えます。山本太郎さんのリズミカルな、変化に富んだシュプレヒコール、字余りな文句も人が続いていくから不思議です。若い彼は、1時間余りの行進最後まで叫んでいたことが印象に残りました。市役所は、ちょうど坂道をのぼった頂上、「開成山公園」の向いでした。
市役所で「郡山市への申し入れ書」を読み上げ、終了となりました。
シンプルな行進でしたが、参加者たちの真剣さが印象深いものでした。
行進途上の空間線量率は、0.6~0.7μSV。郡山は、新潟の現在の平均空間線量率0.05μの14倍。年間で換算すれば、上限1mSVの5~6倍、子どもにはとても高いものです。子どもたちの疎開とその後の真剣な除染は早急に対処すべきであり、郡山疎開裁判の勝利を強く望むものです。

10/12  石山

2011年10月11日火曜日

新潟における「福島震災避難生活の課題」について考える

下記のような勉強会を催しますので、関心ある方、どうぞご参加下さい。

みなさま 

福島原発震災による新潟での避難生活に関して、震災前とできるだけ同じように生活していただくために、新潟市での生活情報の不足はないか、平等な待遇が図られているか、などの課題について新潟市民として考える場を以下のように設定してみました。

関心ある方、ご参集下さい。

<日時・場所>       10月20日(木) 午前10時から 新潟市役所第二分館にて

「 福島震災避難生活の課題について考える - 新潟市(危機管理防災課)に聞く」

なお、 災害対策で活動している市議会議員や避難者(東電原発被害者の会代表)にも来ていただくようお願いしています。

ご参加希望のかたは、午前9:50頃、新潟市役所本館1Fロピー にお集まり願います。       

10/10  脱原発をめざす新潟市民フォーラム   石山謙一郎
連絡先 090-8841-9463

2011年10月8日土曜日

中手聖一「子ども福島」代表との対談 ( 要旨 )

子どもたちの集団疎開をめぐる福島の経過と現状

福島原発震災直後、子どもたちの疎開について、当初、一校まるごと引き受けますとの声が広島
県の3校からあがった。しかし、残念ながら福島から手が挙がらなかった。また、福島県も福島県外へ出す必要ない、との立場だった。つまり、出す気がないということだ。
3月15日ころの35mSvなどというひどい放射能がばらまかれた頃、どんなものかわかっている人々は自主避難を行った。一方、山下俊一などの勢力はご存知のように「100msvでも大丈夫」などとキャンペーンを張った。そして、一般市民は、「それを信じたい」という気持ちでここを動かなかった。私が山下講演会へ参加して100mSvの問題を発言しても「話すな、話すな」と言う声が上がり、ついには、「帰れ、帰れ」との声が会場からあがるほどだった。しかし、5月以降、山下俊一のボロは明
らかになっていき、市民の不信・不安は高まっていった。そして、山下自身も100mSVから20mSVへ「大丈夫」という基準を下げざるを得ない状況にもなった。しかし、この7月、選挙があったが、候補者の中に除染や脱原発を言う候補はいたが、避難については誰も言わない状況であった。議員も経営者も、住民流出の目先の問題しか考えていない。避難については誰一人としてとりあげなかった。

チェルノブイリで学んだこと– 5年間放置したソ連の過ちを繰り返すな !

ソ連は、チェルノブイリ事故で5mSV以上を強制移住、2mSV以上を任意(選択的)移住とした。日本には、強制移住のみで選択的移住権はない。しかも20mSV以上からだ。だからソ連を評価する人もいる。しかし、残念ながら、ソ連のこの避難政策は5年経ってからだ。それまでは、5年間放置したままだった。
事故が2年たった頃、誰にもわかる異常が出始めた。当時グリーンピースのウクライナの責任者で現在イギリスの研究所長と話したが、子どもたちは風邪を引いたらなおりにくく、重篤になりやすく、また、肺炎になりやすいという症状になり、大騒ぎになったそうだ。ベラルーシの団体から聞いた話だが、150km〜300km離れた地でも子どもたちに異常が出始め、役人が来て「ここも汚染地区」、別の地域でも「ここも汚染地区」と測っていった。そして3年後になってやっと汚染マップができた。結局、子どもをガイガーカウンター代わりにしたということだ。
そして、健康な人は5人に1人位になってしまった。
5人で10個の病気をもつようになったともいわれた。
そして、5年たって漸くこの避難政策をとった。
チェルノブイリ事故では、私たちは、5年放置したということがこの事態となった最大の要因だという
ことを学び、このチェルノブイリ事故の過ちを福島で繰り返さないでほしいと言われた。

移住と疎開 – 「サテライト疎開」の決断を !

いまのところ、移住について、市民からも了解は得られていない。しかし、数年先にいやがおうでも必ず、避難の声があがる。ソ連の子どもより日本の子どもが放射能に強いわけではない。
目先のことしか見えない日本政府、自治体の長や議員さんや市民も含めて、一日も早く決断できるように今から準備をしなければならない。ソ連は、あの広大な土地の真ん中で事故が起き、移住地も新しい土地が用意された。しかし、日本では汚染された土地でも捨てるわけにはいかない。大規模な除染をして1m2でも住める土地を広げていくことが必要だ。そして除染された土地に戻るという避難政策が必要だと考える。いま、賛同(市民グループは別にして)は得られないけれど、こういう避難政策が必要な時が来ると将来を見すえて提唱している。移住でなく、いずれは戻ることを前提にした疎開が必要だ。

私は、選択的避難地区を設定して、
1,自己選択–情報開示 
2,同程度生活の保障–平等待遇 
3,アイデンティティの保護 –避難者コミュニティ
を3原則としており、これを「サテライト疎開」と言っている。

広島では、被曝者を中心として「サテライト疎開を実現する会」が結成された。そして、新潟には、唯
一の集団疎開といっていい「朝鮮学校」の例がある。いろいろ問題あっても福島県人としてアイデン
ティティをもった集団疎開はできるし、力あわせれば可能だと言えるのでないか。
(2011.9.2 福島市「子ども福島」情報センターにて)

2011年10月5日水曜日

9・19 明治公園 さようなら原発1000万人アクション新潟県から参加レポート

高橋 和彦

新潟駅で顔見知り数人に会う。皆明治公園へ。最寄の地下鉄の駅に開始30分前くらいに到着、札口付近にはそれらしい人たちが壁の周辺地図を見たりきょろきょろしたり、そのうちなんとなく人の流れができて、私らはその後を付いて行った。階段を上がったところはもう辺り一面人の波。会場に行く途中にはそこら中幟旗やらミニ集会やっているのやら座り込んでいるのやら叫んでいるのやら唄っているのやらもう何がなにやら分からない状態。
見渡す限りの歩道は人で埋まり、次々と人波が流れ込む会場に入るともうびっしり人と幟旗でわあーっという感じ。
ステージめがけてひたすらかき分けかき分け、途中で新潟平和運動センターの幟の下、見覚えある顔に手を振って挨拶。ようやくステージから5,6メートルくらいのところに空きを見つけ、座り込む。隣
は福島の人たちだった。焼けたアスファルトが尻をジリジリ。
参加者は公園の外まで溢れたのはもちろん、集会が終わりかけてもまだ各駅から会場に向かう人で歩道は埋まり動けない状態だったそう。(主催者発表6万人! 警察発表2万7千人! 各マスコミはどう表現したか!)

集会が始まる。ライブ。「♪まえをむういてあーるこおおう…なみだがこぼれたっていいじゃな
いか…」で盛り上がり。
発言は8人、皆短くても中身の濃いものばかり。福島からのアピールのときはステージ下の「福島隊」が幟とともに皆立ち上がる。「…日々否応なく決断に迫られている。子どもにマスクをさせるかどうか、食べるかどうか、逃げるかどうか…」「私たちは捨てられた」「誰かが決めたことに従うのではなく、一人一人が考えて…」「原発をなお進めようとする力が垂直にそびえる壁ならば、横に限りなくつながろう…世界へと…」 
山本太郎は原発反対の最も単純で最も本質的な部分をストレートに-「俺は生き延びたいから、他の人にも生き延びてほしいから…」。「主義、思想、政治にまみれ」(姜信子)、埋没しかねない反原発を、その手で掬い取って見せた。    
デモは3コースに分かれて都内へ。私たちは「個人グループ」のAコース。青山通ってNHK脇ま
で。会場から外に出るのが押し合いへし合いで大変。ようやく外に出て適当なところにいると、ここ
からがまた大変で動かない。警察が勝手に200人くらいで切っていって、しかも前のかたまりがはる
か向こうに行っているのになかなかこちらを進めさせない。警察の策略だという話。後半はすいすい
だったけれど。途中では両側の歩道を後ろからじゃんじゃんデモの人たちが幟旗、プラカードに掛け声で車道上で動かない私たちを追い抜いていく。あれって法令違反じゃないか、なんて関係ない。こちらもいらいら限界でついに「早く行かせろ」コール。先導の警官顔青ざめ。後で聞いたのでは会場から出るだけで2時間待った人もいるとか。
若い男性、着物の着流しにつばつき帽子、手には巾着で下駄履き。すっとデモに入ってきて30、40?分くらい一緒に歩いて、またすっと歩道へ出て行った。
ゴール地点近くで路上に止まった車の中から大江健三郎が「ごくろうさま…」と声を掛けていた。
皆駆け寄り握手。温かく柔らかい手だった。『あなたのコトバでここに来ました。いつも勇気をありが
とうございます』、伝えられなかったコトバを心の中でつぶやいた。
近くのカフェで飲み物を買い、路上で一服する間も、次々とデモの列がやってくる。本当に色々なグループがいるもんだと感心。それによくこれだけ集まった。だいぶ暗くなったころ、威勢のいい掛け声でひときわ元気な一団が来た。先頭はマイクを持った山本太郎。さすが上手だね。
忌野清志郎、斎藤和義の歌が鳴り響く。会場脇の出発したところでは女性が自作らしいナントカ音頭を歌っていたし、形(ナリ)もさまざま、10のグループがあれば10のやり方があるという感じ